校章の由来

 

 1965年(昭和40年)1月6日、学校設置の県教育委員会告示と共に、教育庁の指導課長沢田繁二先生から県内の工業高等学校で図案を履修している生徒に一般募集する一方、業者方面にも図案を求めた。

 その結果、教育長山下重輔先生の選定によってイデア工房山田健男氏から提出された現在の校章が定められた。校章の図柄は小金大谷口城址に拠り、しのぎ(日本刀の刀身の峰に沿って、線をなしてもりあがっている部分)を図案化して城壁を象徴したもので「しのぎ」は「凌ぎ」に通じ、しのぐ、がまんする、のりこえると云う意味を持ち、刃で敵を倒すのではなく、しのいで敵の刃をかわすと云う和の精神の基であるといわれる。すなわち、和の精神を基として、耐え忍び、困苦をのりこえて建設するという創造の意欲をあらわしたものである。

 三角形を積み重ねた単純な図柄であるが、内包する精神的基調は前述の如くで、学校の発展と共に光彩を増すものと思われる。

校歌

校 歌


作詞:佐伯孝夫
作曲:吉田 正


はるかな富士よ 筑波は間近
江戸川光り わが窓高し
照る日 雨の日 雪降る冬も
学びの道に汗してはげむ
若人 こゝに小金高校
讃えよ われらの小金高校

みどりの丘を越え来て集い
荒地をひらき ぬかるみ埋めぬ
明日を求めて 質実剛健
自信をもちて すくすく育つ
若人 こゝに小金高校
讃えよ われらの小金高校

春には春の 秋には秋の
みなぎる精気 われらを伸ばす
わが師 わが友 こころは通い
国を愛して 社会につくす
若人 こゝに小金高校
讃えよ われらの小金高校

 

校歌作詞者・作曲者紹介

佐伯孝夫 (さえき たかお) 作詞家

 1902(明治35)11年12月東京に生まれる。早大仏文科卒業。西条八十に師事し作詞活動に専念、デビュー作は33年の古賀政夫作曲の『僕の青春』。その後、『さくら音頭』『とんがらがっちゃだめよ』『軍国ざくら』など作詩。他年東宝映画『秀子の応援団長』の第2主題敬『燦めく星座』が大流行した。映画の中ではうたうシーンがなかったのを、とくに夕暮れのグラウンドで灰田勝彦がうたうシーンを挿入したもの。戦時色の強い時代に、青春を謳歌したこの歌は、若者に圧倒的な人気を得た。同じ年『森の小径』も、恋人の業しさを透明な感覚で歌いこんだもので、青年のロマンをさそった。当時、ロマンチックなものはこの歌しかなかった。42年の『新雪』も大流行したが、43年の『勘太郎月夜唄』は戦時中唯一のヤクザ・ソングであり、軍隊、工場、家庭で多くの日本人にうたわれた。戦後は『銀座カンカン娘』(49年)、『野球小僧』(51年)、『哀愁の術に霧が降る』(56年)、『潮来笠』(60年)、『いつでも夢を』(62年)などのヒット曲も多い。(現代人物辞典 朝日新聞社)

吉田 正 (よしだ ただし) 作曲家

 1921(大正10年)年1月20日茨城県生まれ。日立工業専門学校卒業。陸軍伍長として従軍、敗戦。ウラジオストク郊外アルチョム収容所で捕虜となる。祖国への帰還を願って増田幸治がつくった詩に、吉田がセメント袋のしわをのばしながらメロディをつけ『異国の丘』を生む。48年 8月1日、NHK「のど自慢素人演芸会」に1人のシベリア復員兵が出場、収容所でうたった歌だといって『異国の丘』をうたう。アナウンサーが声をつまらせ鐘を打つ人も絶句、そのあと連打が起こった。佐伯孝夫はこれにうたれ加筆し、清水保男が編曲、竹山逸郎と中和耕造が吹き込み、同年9月、ビクターから発売され爆発的なブームを起こす。ブームのさなか吉田は帰還し、それ以後コンビを組んで、『哀愁の街に霧が降る』(58年)、『有楽町で逢いましょう』(58年)、『東京ナイトクラブ』(58年)、『潮来笠』(60年「『いつでも夢を』(62年)など数多くのヒット曲をつくり、同時に多くの無名新人を大歌手に育てあげた。(現代代人物辞典 朝日新聞社)

逍遥歌
  鈴 木 国 郭  作詞  野 尻 俊 康  作曲

丘のこだまよ 野のすだま
あゝわが胸に いにしえを
静かに語る 小金の城址
望めば青き 雲が飛ぶ
若きいのちの 雲が飛ぶ

筑波おろしを身にうけて
あゝわが行手 はてしなく
矢切の渡し 野菊の墓に
露より清く 花が咲く
若きいのちの 花が咲く

光る白砂 不二のみね
あゝわが望み きわみなく
小金が原の 風新しく
学びの窓に 夢が湧く
若きいのちの 夢が湧く

      1965年

 


 

 

千葉県立小金高等学校落成記念頒歌


鈴 木 国 郭  作詞     野 尻 俊 康  作曲

ゆるぎなき 礎深く
竝び建つ 学窓清し
いまぞ成る 小金高校
日に映えて いよよ輝く

新しき 時代の希望
かぐわしき 世代の理想
あすを呼ぶ 小金高校
枢ぎつぎて 永遠に栄あれ
                               1968年